レオナルド×ミケランジェロ展|三菱一号館美術館(東京・丸の内)
正直有名な作品はあまりないので、そこまで期待して行ったわけじゃなかったんです。でも、すごくよかった!
もちろん二人ともデッサンが美しいことは、画集をみていたのでわかっていたのですが、それでもまずは、チラシにもなっていた、レオナルド・ダヴィンチの<少女の頭部/「岩窟の聖母」の天使のための習作>と、ミケランジェロの<「レダと白鳥」の頭部のための習作>の2つのデッサンにノックアウトされました。
シンプルなデッサンなのに、滑らかな肌や、見透かされそうな眼差し、立体的な睫毛など、とにかく本当に美しいのです。
上手なデッサンって、よくデッサンされた人物が今にも動き出しそう、みたいなことを言われるのですが、この2つのデッサンは、単に描かれた人がリアルというのを超えて、見ていると、描かれた時代のイタリアにタイムスリップしてしまったかのごとく、当時の空気感さえ美術館に蘇らせていました。
まさか絵にそんな力があるなんて思っていなかったから、ちょっとゾクゾクしました。特に私は美術に関しては完全に門外漢。大した感受性も持ってなかったので、そんな自分さえ引き込んでしまうってすごいなあと、放心状態になりました。
個人的には、レオナルド・ダヴィンチのデッサンには、人間の骨格の美しさとイデアとしての人間の形と美化しない人間の平均的な形の両方を見、他方でミケランジェロのデッサンには、人間の肉感、筋肉の躍動感を感じました。
ミケランジェロは、彫刻作品として、<「河神」の習作>も展示されていたのですが、これがまた、とても小さいのに、一つ一つの筋肉が神々しくて惚れ惚れ。
また、<「イサクの犠牲」のための習作>というデッサンも、観た瞬間に、学生時代、朝の礼拝でぼんやり聞いていたアブラハムの物語が、一気に蘇ってきてびっくりしました。
私のとても好きな詩に、飯島耕一さんの「ゴヤのファーストネームは」というのがあります。
何にも興味が持てず、ただ鬱々と自分の内部を見つめているだけだった人が、ある日ゴヤを知ることで、閉ざしていた自分の心の扉を開き、世界へ足を踏み出し、時間が進み出す、といった感じの詩です。(詩を要約するほど野暮なことってありませんね。本当に素敵な詩なので是非読んでほしいです。)
この展覧会に行って、思い出したのが、この詩でした。
この展覧会で作品を観て感じたのは、もっと作品が観たい、彼らの生きていた国で観たい、その地で当時の空気感がよみがえるかどうか、肌で感じたい、ということでした。
私はアートにそれほど興味がないので、わざわざ外国まで行って美術館に行きたいなどと思ったことはないのですが、今回は、最後の晩餐を、最後の審判を、その地で観たい、とものすごく強く思い、自分でもびっくりしました。
それと共に、「何にも興味が持てなかった私が、確かに恢復しつつあるんだな」とも実感でき、なんだかすごく嬉しくもなりました。
まさか絵に感動するような人、感動できるような人になるなんて、数年前は思ってもみなかったのです。
観に行ったところで感動できないからお金と時間の無駄だと考えていたくらいなんです。でも、行ってよかったなと、今は素直に思います。
海外旅行にいけるくらい元気になるのがいつになるのかはまだわからないけれども、でもいけるように元気になりたいなあ。
ところでこの展覧会に行った後、ヤマザキマリさんのテルマル・ロマエをなぜか思い出しました。時代は違うけど、なんだかんだで顔が似てるからかな?