私は体を動かすこと以外に、読書も大好きです。
でも、実は読書ってするたびに、後ろめたさを感じてきました。
だって、人が書いてものをただ読んでいるだけで、何にも自分の身にはならないんだもの。
単なる消費者って、社会においては創造者より劣る存在で、賢い生き方をしている人はそんな受動的な生き方はしない、だから読書、特に物語などで時間を潰すことは、賢くないことだと、時間の無駄遣いをしている、と思わずにはいられなかったんです。
でもね、時間の無駄遣いってなんだろう。
無駄遣いじゃない時間の使い方ってなんだろう。
いつも誰かの評価を気にして、賢そうな振る舞いをすることが、賢さを演じることが時間の正しい使い方なんだろうか。
常に創造的で進歩的な自分を目指して、上を目指してギスギスと努力を続けることだけが正しい時間の使い方なんだろうか。
それで本当に誰を幸せにするというんだろう。
最近になってふっとそんなことを思ったんです。最近になるまでそんなことすら考えに至らなかった。
神様に素晴らしい才能を与えられた人は、ノブリスオブリージュじゃないですけれど、社会貢献をするために、社会のために生きる必要もあるいはあるのでしょう。
でも私、よくよく考えたらヒノキの棍棒と旅人の服しか与えられてなかったわ。しかも勇者の属性もなかったわ。世界という劇の中で私に与えられた役割なんて、背景程度のものだし、その程度のものしか与えられてなかったんです。どうせその程度しか期待されてないんです。
だったら、無理に勇者になって正しく生きようとしても滑稽なだけじゃない?
それよりは、そんなとるに足りない私のことを大事にできるのも幸せにするのも私くらいしかいないのだから、せめて自分が不幸になって誰かを逆恨みしなくても済むように、自分で自分を幸せにすることこそが、私がすべきことなんじゃないかって。
そう考えたらなんだか肩の力が抜けました。
私がかりそめの楽しさを求めて暇つぶしすることは、別に悪いことじゃないんですよね。
暇つぶしした結果、その時間だけであっても自分が幸せになれるのであれば、それは時間の無駄遣いなんじゃなくて、充実した時間の使い方なんです。誰に負い目を感じる必要もないし、誰にも文句を言われる筋合いはなかったんです。(ていうかそもそも私が暇つぶししたからといって文句を言ってくる人なんていなかったんです。私が勝手にいると思ってビクビクし、私が勝手に私をそう責めていただけ。)
本当に大事なのは自分が楽しいと思えるかどうか。
楽しいと思えることこそ、無駄遣いじゃない時間の使い方なんじゃないかなと、ようやくそんな風に思えました。
というわけで、私はダラダラとだらしなく漫画を読んだり物語を読んだりすることを正々堂々と楽しんでいこうと思います。
実利的な価値のない単なる暇つぶしこそ、大切にしていきます。